◇◆ 春の憂鬱 ◇◆ 『珪ちゃん』 まだ頭がボンヤリする中で、その声だけがハッキリと聞こえた。 『朝だよ?』 その声に反応した俺は、手で目を擦りながら体を起こす。 『おはよう』 そう言いながら部屋のカーテンを開ける姿。 『おはよう…』 俺の声に振り返る彼女。 『おはよう珪ちゃん』 微笑む彼女の顔が、後ろから差込んでくる朝日に反射してハッキリと見えない。 『まだ寝ぼけてるんだ…』 クスクス笑いながら俺を見ている。 『ん?あぁ…ゴメン…』 そんな彼女をじっと見つめると 『いつもの事だから』 そう言って微笑む彼女。 なのに… 「また…か…」 目が覚めると誰もいない。 カーテンから差し込む朝日は紛れもなくホンモノだった。 そして誰も居ないこれも紛れもないホンモノ。 あの柔らかい日差しと優しい空気がニセモノで、今ある普段と何ら変わりないこれが現実。 「あれは…」 何なんだ? 桜の蕾が深緑から薄紅に色付き始める頃になると、不意に俺を襲う夢。 同じ映画のワンシーンを繰り返し見ているように、あの場面だけが俺を襲う。 夢の中の出来事なのに 『珪ちゃん』 そう俺を呼ぶ声だけはハッキリ耳に残っている。 とても優しい、俺を包み込んでくれるような声。 「一体誰なんだ…?」 春先に俺を襲う夢は、彼女の声を俺にハッキリと聞かせてくれても 一度も彼女の顔を見せてはくれない。 動きの全てを、言葉の全てを暗記する程見る夢なのに 彼女の言葉を一言一句思い出せても、彼女の顔だけが思い出せない。 その事が、酷く悔やまれるのは何故だろう? 「思い出せないのか?それとも…」 思い出したくないんだろうか? 彼女の顔を思い出した時、俺の中で何かが変わる予感があった。 「だから…思い出したくないのか?」 いつもなら、ああまたあの夢か…で済む事が、どうしてこんなにも気にかかる? 何かが起こる気がした 春の憂鬱 □